Struggle.
   



そこに、眠っているのはどう見ても彼でしかあり得なかった。短く整えられた髪も、その顔立ちも、毎日目にしている彼の姿から寸分の違いもなく見える。敷かれた布団の中に隠れている身体の部分を確認することは出来ないけれど、まさか首から上だけが彼である別の生命体、なんてことはないだろう。万が一そうだとするならば、長門さんは早々のうちに打ち明けてくれている、ものだと信じたい。
「座って」
いまだ日も昇らない時間だというのに、常通り制服を着込んでいる彼女は台所から急須と湯呑みを携えてやってきて、それが当然のように炬燵へと腰を下ろす。そういえば、と自分が身につけている衣服にようやく注意が及べば、僕もいつの間にか、枕元に置いておいた私服ではなく北高の制服をきっちりと身につけていたのだからおあいこという奴かもしれない。きちんと正座をしてこぽこぽと小気味のいい音を立てて緑茶を注いで、茶菓子はないけれどと、言った。もしかしたら、彼女なりの冗談なのかもしれない。
「大丈夫。今は眠っているだけ」
「彼が、ですか」
「そう」
思わずため息をついてしまった。彼に何らかの危害が加えられて負傷した結果、いまここにいる、という可能性はとりあえずなくなったらしい。
大丈夫、だから座って、と促されれば、それに従わない理由もなかった。彼の眠る部屋へと続く扉を閉じて、彼女の正面に用意された座布団の上へと座る。思えば、彼女とこうやって向き合う機会なんて今まで皆無だった気がする。差し出された湯呑みに口を付けた。この茶葉を用意したのは、いったい誰なのだろう。
僕が湯呑みを炬燵の上へと置くのを待って、彼女は常に真摯な表情を湛えた瞳を、僕の方へと向けた。
「先に、謝らなくてはいけない。ごめんなさい」
思わず眉を寄せてしまった僕が二の句を継ぐ前に、彼女は言葉を続ける。
「わたしは、わたしに蓄積されたバグによって、今日、正確には十二月十八日の午前四時二十三分に、一度世界を改変した。今こうしているわたしは、一度改変を起こした後に彼と朝比奈みくるの異時間同位体の協力によって改変がなされなかったことにされた結果、現在のわたしを維持しているわたし。新たな十二月十八日のわたし。そして、」
――貴方もそう。
常に最小限度の言葉数で会話をしているような素振りさえある彼女は、そう一息に言い切った。
【プロローグより一部抜粋】


「ここは……」
「僕の家です」
ひとつの扉の前にまで案内されて、ようやく手が離される。なんと、俺はずっと手を繋がれていたのか。大の男が二人で仲良く手を繋いでなんて、端から見たら異常だろう。別に仲良くはないが。
ちょっと待ってくださいねと言いおいて、そいつはごそごそとズボンの右ポケットに手を突っ込む。と。「あれ?」と慌てたような声を出して顔をしかめた。たぶん鍵が見つからなかったのだろう、あれ、あれ、なんて間抜けな声であらゆるポケットというポケットを探りだす。美形が間抜けというのも、なんだか面白いものがあるな。気付けばふっと俺は頬の筋肉をゆるめていて、そういえば、なんて今更ながら、ようやく東の端を明るくし始めた空に目をやった。こんな早い時間に外に出たのはいつ以来だろう。子どもの頃、旅行のためにと早朝に家族で家を出たときのあの、非日常然とした感覚が俺は大好きだった。もう遠い昔のことのようだと、息をつくと張りつめた空気が白く染まる。めちゃくちゃ寒かった。そりゃそうだ、十二月も半ばなんだから当たり前のことなのだったけれど、きっと我ながら今まで相当混乱していたのだろう、寒さも吹っ飛ぶくらいには。
かちゃん、と存外に大きく響いた錠前が解かれる金属音に、はっと意識を戻した。
「どうぞ、入ってください」
ようやく鍵を見つけ出せたのだろう、既に表情を取り繕ったそいつは開いた扉の中に俺を促していた。薄暗い。ぼんやりと輪郭線を表す玄関には、きっとこいつのものだろうスニーカーが一足だけ端の方に寄せられているのみだ。うちの学校みたいに地元の人間ばかりを集めた学校で一人暮らしをしている奴なんて俺は今まで聞いたことがなかったのだが、さっきの長門さんもそうだったようであるし、意外に多いのだろうか。
「どうしたんですか」
「あ、いや、……別に」
靴を脱いで上がり込む。短い廊下の突き当たりの部屋の中に踏み入れれば、さっと部屋の電気を点けたそいつに今コーヒーを淹れますからあいているところに適当に座っていてくださいと言われて、おずおずと炬燵の側に腰を下ろした。何やら水音の響きだしたキッチン、もとい廊下に背を向ける。そのまま、失礼ながら部屋の中を観察させてもらった。
雑然とした部屋だ。テレビとベッドと炬燵と本棚と、ノートパソコンが置かれた机。テレビからは見慣れた出力コードが伸びているから、たぶんぱっと見では見えないところにゲーム機がひっそりと置いてあるのだろう。高校生らしいんだからしくないんだかよくわからない部屋だが、明らかに普通の高校生の家には似つかわしくないだろう異質なものも目に付いた。幾つか積んである、なんだかよくわからない文章がのたくったコピー用紙の束とかだ。学校で配布されるプリント類とは、ちょっと違う雰囲気を持っている。紙に雰囲気がどうしたこうしたというのもおかしい気がするが、でもやっぱり、紙質というかなんというかが、根本的に違うというかそんな感じだった。
「あれ、エアコン……ああ」
すっ、と背後から腕が伸びてきて驚く。耳の横、数センチのところを通過していく腕。考えるまでもなく家主のものなのだが部屋の中を観察していた手前居心地が悪いというか、それよりなによりあんまりにも近い。腕時計の文字盤に刻まれた数字が読みとれそうな距離だった。おい、と抗議してやろうと思って振り返れば、まるで赤外線通信をしようとしている携帯電話同士のようにすぐ側に存在していたそいつの顔、ふたつの瞳とばっちり目があってしまう。
「近い!」
「はは」
押し返せば全くもって悪びれない様子で笑って、俺の傍らに膝立ちをしたままそいつは左手に持ったリモコンをエアコンへと向けた。ピッ、と電子音。
「寒かったでしょう。すみません、気がつかなくて」
【act1より一部抜粋】




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